ベルサイユ宮殿とマリーアントワネット l 歴史を知って観光をもっと楽しく!

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ベルサイユ宮殿 旅行お役立ち

ベルサイユ宮殿といえばマリーアントワネットで有名なところだよね!

おひるね
おひるね

そうなんです!ベルサイユ宮殿ではマリーアントワネットの生活を垣間見ることがきでます!

この記事はこんな方にオススメです!
  • ベルサイユ宮殿に観光に行くから、ベルサイユ宮殿についての知識が欲しい!
  • マリーアントワネットとベルサイユ宮殿の結びつきが気になる!
  • マリーアントワネットってどんな人生だったか知りたい!

この記事を最後まで読めば、「マリーアントワネットがどのようにベルサイユ宮殿で過ごしたかわかり、観光がもっと楽しくなります!

「せっかく観光に行くなら歴史を知りたい!」という方に向けた内容なので、ぜひ読み進めてくださいね!

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ベルサイユ宮殿とは

ベルサイユ宮殿は、ランスの首都パリから約20キロメートル離れた場所にある壮大な宮殿です。

この宮殿は、ルイ14世によって17世紀に建てられ、フランスの王政の象徴として多くの歴史的な出来事の舞台となりました。

ベルサイユ宮殿はなんといってもその豪華さと美しさで知られ、世界中から観光客が訪れます。

マリー・アントワネットがベルサイユ宮殿に住み始めるまで

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マリー・アントワネットは、1755年にオーストリアのウィーンで生まれました。

彼女は神聖ローマ帝国の皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘です。

フランスの王太子ルイ16世と結婚するために14歳でフランスに送り出されました。

1770年に彼女はフランスに到着し、ベルサイユ宮殿で生活を始めました。

1774年にルイ16世が即位すると、彼女はフランスの王妃となりました。

ベルサイユ宮殿での抑えておくべきスポット3選

鏡の間

ベルサイユ宮殿で最も有名な部屋の一つが「鏡の間」です。

この部屋は全長73メートルのホールになっています。

片側に17枚の大きな鏡が並び、もう一方には同じ数の窓が並んでいます。

豪華なシャンデリアが天井から吊り下げられ、これでもかと豪華絢爛な装飾が施されています。

マリー・アントワネットはこの華やかな場所で多くのイベントを開催しました。

具体的に彼女が鏡の間で行った活動には次のようなものがあります!

  1. 舞踏会:マリー・アントワネットは頻繁に舞踏会を開催しました。華やかなドレスをまとい、貴族たちと踊りを楽しんだそうです。彼女のファッションセンスは、貴族間でトレンドになるほどでした!
  2. 公式儀式: 鏡の間は、重要な公式儀式や祝宴の場としても使用されました。多くの外交的なイベントを行い、外国の大使や貴族たちを迎え入れました。これにより、フランスの豪華さと権威を示す場ともなっていました。
  3. 音楽会と演劇: マリー・アントワネットは音楽と演劇を愛していました。鏡の間でプライベートな音楽会や演劇を楽しんだり、彼女自身も舞台に立つこともありました。

王妃の寝室

マリー・アントワネットの寝室は、ベルサイユ宮殿の中でも特に美しい部屋の一つです。

広さ自体はそれほどないのですが、豪華な装飾と細工が施された家具、壁紙、カーテンが特徴で、彼女の趣味やセンスが反映されています。

彼女の寝室には、彼女の愛した花のモチーフや、柔らかな色合いの壁紙が使われており、女性らしさと美的感覚が感じられます!

寝室では公開出産も

マリー・アントワネットは、ベルサイユ宮殿で四人の子供を出産しました。

彼女の第一子であるマリー・テレーズは、1778年に生まれました。

彼女の出産は多くの貴族や宮廷人、約50人が見守る中で行われました。

生まれた赤ん坊が取り替えられたりのないように、見張られていたわけです。

おひるね
おひるね

とはいえ大勢の人に見られながらの出産・・・嫌すぎませんか・・?笑

マリーアントワネットの子供たち
  • マリー・テレーズ・シャルロット(1778-1851)
    唯一成人まで生き延びたマリー・アントワネットの子供。革命後オーストリアに亡命し、後にブルボン家の復興を支援しました。
  • ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ(1781-1789)
    ルイ17世として知られる次男。若くして結核により亡くなりました。
  • ルイ・シャルル(1785-1795)
    フランス革命後、両親の死後に王位継承者とされますが、革命政府により投獄され10歳で獄死しました。
  • ソフィー・エレーヌ・ベアトリス(1786-1787)
    幼くして亡くなったマリー・アントワネットの末娘。生後わずか11か月で死去しました。

プチ・トリアノン

プチ・トリアノン

マリー・アントワネットが特に愛したプチ・トリアノンは、ベルサイユ宮殿の敷地内にある小さな館です。

ルイ16世からプチ・トリアノンを贈り物として受け取りました。

この小さな宮殿は、宮廷の厳しい儀礼や複雑な政治から解放されるための場所として、マリー・アントワネットにとても気に入られたそうです♪

彼女はプチ・トリアノンで友人たちと一緒に過ごし、ピクニックを楽しんだり、庭で花を育てたりしました。

館以外にも、プチ・トリアノンの庭園や田舎風の村「ハムレット」も見学することができます。

プチ・トリアノンの庭園
おひるね
おひるね

プチ・トリアノンはマリーアントワネットが去った後も改装を重ね、使用されていました。

マリー・アントワネットがベルサイユ宮殿を去った理由

1789年10月5日、フランス革命が進行する中、パリの女性たちが食糧不足に抗議してヴェルサイユへ行進しました。

これが「10月行進」として知られる出来事です。

群衆がベルサイユ宮殿に突入し、王家をパリに連れ戻すことを要求したことで、ルイ16世とマリー・アントワネットはパリへ向かうことを余儀なくされました。

マリー・アントワネットはルイ16世や子供たちとともに、ベルサイユ宮殿を離れテュイルリー宮殿へと移されました。

彼女たちの移動は護衛され、多くのパリ市民に見守られながらのものでした。

これはフランス王室にとって、事実上の軟禁生活の始まりを意味しました。

テュイルリー宮殿は放火され、ほぼ全焼しました。跡地はテュイルリー庭園として現在残っています。

テュイルリー庭園

マリー・アントワネットの最期

フランス革命の激化に伴い、王室はますます孤立してしまいました。

そして1792年にはルイ16世とマリー・アントワネットは正式に逮捕されるまでに至りました。

1793年には革命裁判所で裁かれ、反逆罪で有罪判決を受けました。

その年の10月16日、マリー・アントワネットはギロチンによって処刑され、その生涯を終えました。

まとめ l ベルサイユ宮殿はマリーアントワネットの軌跡が刻まれた場所

ベルサイユ宮殿

ベルサイユ宮殿では、マリーアントワネットが過ごした部屋や庭園を見学することができ、その歴史を感じることができます。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というセリフは、確かにここで住んでいたら思ってしまうかもしれません。笑

宮殿の各部屋や庭園を歩きながら、彼女がどのようにこの壮大な宮殿で過ごしたかを想像しながら歩くと、より感慨深い体験になりますよ♪

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